追 悼

〜 高須賀耕一氏を偲んで 〜

 


Koichi Takasuka    #WTB/CTB
Hiroshima Rugger Club

 


2006年5月9日、一人の快速ラガーマンが36才という若さで突然帰らぬ人となった。

広島ラガークラブ   高須賀 耕一

ラガーマンとしては決して恵まれた体格ではないが、抜群の身体能力に秀でたラグビーセンス、それに甘んずることなく常に自己努力を怠らず、全力でプレーする彼の雄姿は誰の目にも焼きついていることであろう。
際立ったスピードで相手ディフェンスをものともせずゲインラインを突破する華麗な走り、高い集中力で器用にこなすディフェンス、チームのキーマンとして、トライゲッターとして、グランドを駆け回り攻守に活躍する彼の姿をもう見る事はできない。

 

今から10年前の1996年夏、広島に転勤してきた彼は、間もなく広島ラガークラブに入部する。
広島のクラブラグビーに対する彼の当初の印象は、関東に比べあまり盛んでなく、正直なところ物足りなさを感じたそうだ。
転勤直前まで、全国クラブ大会へも出場するような常勝チームだった茨城県の常総クラブに所属し、茨城県代表として国体選手にまで選ばれた経験を持つ彼のレベルからすれば、そう感じるのも無理はない。
それでもすぐにチームに溶け込み、そして決して不満を言う事も自分自身が手を抜く事もなく、精一杯ラグビーを楽しみ、当然活躍もしていた。
本職はWTBでありながら、チーム事情でCTB、時にはFBで出場する場面もあったが、いつでも前向きに臨み、「ボールに触れる機会が増えてやり甲斐があるからCTBも悪くないかな。」 「FB、なかなかいいね。もっと攻撃のチャンスが増えれば面白いポジションだ。」と話していた。
どのポジションでも素早く適応し、どんな試合でも最後までモチベーション高く挑むその姿は存在感に溢れていた。

転勤から翌年のリーグ戦でも数々のグランドを沸かせるプレーを披露しトライを量産、チームのリーグ優勝に大きく貢献した彼の活躍ぶりは、他チームにも強烈な印象を与え一躍注目を浴びた。

 

その後、広島ラガークラブのキャプテンを引き受ける事となった彼は、理想とするチームの方向性を掲げた。
『 フランス流のシャンパンラグビー 』
どこからでもボールが弾け出てくるような攻撃はもちろんのこと、アタックだけではなくディフェンスも次から次へと湧き出てくるようなラグビーを目指していた。
妥協を許さない彼は、社会人としての日々の仕事もきっちりこなしていく傍らで、その高い目標に向けての明確なビジョンを描き、他チームの試合にも足を運んだりしながら細かいサインプレーや戦略を練り、熱心にチーム作りに取り組んでいた。

 

1998年秋、キャプテンとなって初めて迎えたシーズン。
今まで通り、持ち前のスピードを生かした個人技で勝負する場面が目立ったが、「キャプテンと言う立場なら、もう少しチームプレーを重視した方が良いのでは?」と周囲からの忠告が入り、かなり戸惑っていた時期があった。
キャプテンとして自らチームプレーを軽視するわけにはいかず、かと言って試合の勝敗にも拘りたいし自分で攻められる場面では行きたくなる気持ちもあっただろう。
悩みながらもそれ以降、攻撃に関しては自らの個人技だけに頼らず、全体的な様子を見ながら周囲も生かしていく場面が増えていった。
きっと 本人は相当なフラストレーションが溜まっていたのだろう。
「キャプテンしない方が楽にラグビーできるなぁ。」
決して弱音など吐かない彼の口からこぼれた当時の印象的な言葉だ。

実際、個人プレーに走れないもどかしさに加え、メンバーの相次ぐ転勤も重なる不安定なチーム状態の中でなかなか勝ち切れない大会が続き、本当に辛い時期であったに違いない。
3シーズンキャプテンを務めたが、結局、一度も優勝を収めることはできなかった。
負けず嫌いの彼のことなので、まして優勝の無いまま退いたキャプテンはここ数年いなかったので、相当悔しかったはずだ。

 

それから2シーズン後の2003年春、相変わらず低迷中だった広島ラガークラブの再起をかけて再びキャプテンに復帰。
しかし、その直後の練習試合で手を骨折し、5月から始まったクラブ大会の試合を欠場することとなる。
彼の欠場はチームにとって大きな痛手だったが、試合に出られなくても練習には欠かさず顔を出し、的確なアドバイスを送りながらチーム力の一層の強化を図ろうとする彼の姿があった。
それに応えるかのように選手の覇気は上がり、チーム一丸となって勝ち進んだ広島ラガークラブは、いよいよ決勝まで登りつめる。
決勝戦の対戦相手は過去一度も勝ったことのないシーライオンズ。
驚異的な回復をみせた彼は決勝戦で戦列に復帰、2003年夏、この大一番を制し、遂に広島県クラブチーム大会で念願の優勝を果たす。

「嬉しい!」
普段、感情をあまり言葉にしないクールな彼の口から自然と発せられた。
不振にあえいでいたチームを見事再起させ、少しは肩の荷が降りたのではないだろうか。
一言ではあるが、充実感溢れるとても重みのあるものだった。

 

引き続きキャプテンを務め迎えた秋のリーグ、冬の県選手権でも広島ラガークラブは見事優勝し、とうとう悲願の三冠(クラブ大会、リーグ戦、選手権制覇)を達成、広島NO.1チームへと一気に踊り出た。

この1シーズンでキャプテンを退いた後もチームの勢いは衰えることなく、今や広島の常勝チームにのし上がり、県外で行われる大会にも広島県代表チームとして出場する機会を度々得ている。

亡くなる直前の5月6・7日も、愛知県一宮市で行われた第10回関西一宮テンズ大会に広島県代表として広島ラガークラブのメンバーと共に出場。
広島県代表としては第1回大会以来9年ぶりにカップトーナメント進出(第1回大会にも、混成チームの県代表メンバーの一員として彼は出場していた)、更に過去最高成績の準優勝と言う快挙を成し遂げた。もちろん、彼の素晴らしい活躍と共に得た結果だ。
まさに、広島ラガークラブの黄金時代を築き上げた男である。

 

心からラグビーを愛していた彼のその活躍の場は、グランド上だけに留まらない。
通算 4シーズン、広島ラガークラブのキャプテンを務め、その間発揮された素晴らしいリーダーシップは前述の通りで、加えて、チーム運営の面倒な裏方的仕事も要領良くこなし、表裏両面からチームを支えてきた。
また、1チームの柱となるだけでなく、広島県クラブ選抜チームの一員として他チームのメンバーとの調整なども上手く行い、広島ラグビー祭での選抜チームの試合には毎年のように出場し活躍していた彼は、どのチームの選手からも慕われていた。
更には、高校生への指導にも積極的に参加し、ラグビー発展のためにも惜しまず時間を割いた。
そして時には仲間の個人的な悩みを聞く良き相談相手ともなり、酒の席では酔いつぶれたメンバーの介抱と多方面に渡り世話役を一手に引き受けてきた。


様々な場面で幅広く活躍し、公私に渡り厚い信頼を得て広島のラグビー界を支え続けてきた彼の功績は計り知れないものがある。

 

一人の真のラガーマン、一人の偉大な男の突然の早世は痛恨の極みであり、運命の非業を恨んで止まない。
ここに生前のご功績とお人柄を偲び、感謝の意を表するとともに、衷心よりご冥福をお祈り申しあげます。

 


 追悼寄稿 
高須賀耕一氏を偲ぶメッセージをお寄せください

 Memorial Scene 
photo album

広島ラガークラブHP